節分おばけ祭では沢山の皆様にお集まり頂きましてありがとうございました。
節分おばけの記事はまた別に書かせて頂くとして、節分でお借りした嵐山一夢庵の
敷地内にある林遊庵さんの古井戸についてご紹介したいと思います。
林遊庵はギャラリーとして使われており、展示会やミニコンサートなどにも使われています。
今回もオーナーさんにご協力頂き、時代装束着付け体験会の会場として使わせて頂きました。
そこには実は古い井戸があります。この井戸は少なくとも1500年代からあるようです。
京都のいろいろな場所は歴史が重層的に重なり合っている事が多いのですが、
嵐山一夢庵の場所は、住所の地名が往生院町と言うだけあり、
平安末期には往生院という寺院があり、平家物語の祇王ゆかりの場所
でした。隣接する場所に藤原定家が百人一首を選んだ時雨亭もあったといわれています。
その後も往生院は存続し、鎌倉時代から南北朝時代は新田義貞の妻勾当内侍が、
新田義貞の首塚を作って供養した場所でもあります。
新田義貞は最後に持っていた鬼切と鬼丸の刀で自らの首を切って果てたとも言われています。
この鬼切は髭切とも言われ、現在北野天満宮に伝わる刀とも言われています。
1500年代のこの場所は、嵯峨村雲別院といって豊臣秀吉の姉で豊臣秀次の母・日秀尼の
お寺でした。豊臣秀次は秀吉の跡継ぎとなるも、秀頼誕生で一気に疎まれ、切腹し、
一族もともに処刑されてしまったという事は皆さんもよくご存じの通りです。
一説には、1595年に豊臣秀次が自害するとき、小姓の山田三十郎に秀次が厚藤四郎を
わたして先に切腹させたとも言われています。
ただし、1592年の文禄の役の最中に秀吉の母大政所が危篤に成り、急遽大坂へ戻る秀吉の
舟が座礁し、それを助けた毛利秀元に厚藤四郎を褒美として与えたとの記録もあり、秀次と
厚藤四郎の話は定かではありません。
さて、いずれにせよ敷地内の古井戸は日秀尼のお寺の井戸で、一説には三条河原で晒された
秀次の首を秘かにこちらへ運びこの井戸で洗ったとも言われています。この場所で秀次は供養
されていたのです。
祇王、新田義貞、豊臣秀次にゆかりのこの場所。
平家ゆかりの小烏丸、新田義貞ゆかりの髭切、豊臣秀次ゆかりの厚藤四郎、
また祇王寺は大覚寺の管理下のお寺、大覚寺ゆかりの膝丸
それぞれの刀の歴史とともにこの場所はあるのです。
この場所で刀剣に関わるお店を開くことになるとは何とも言えないご縁を感じてしまいます。